映画『海よりもまだ深く』ラストの意味とは?良多が取り戻せなかった家族と台風の夜を考察

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映画名:海よりもまだ深く
劇場公開年:2016年
上映時間:117分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
原作:なし(オリジナル作品)
主な出演者:阿部寛、真木よう子、樹木希林、吉澤太陽、小林聡美
ジャンル:ヒューマンドラマ

※以下は映画の結末まで詳しく扱うネタバレ記事です。未鑑賞の方はご注意ください。

「なりたかった大人」になれなかった良多は、なぜ過去にしがみつくのか

『海よりもまだ深く』の主人公・篠田良多(阿部寛)は、かつて文学賞を受賞した小説家です。しかし、その後は作家として成功できず、現在は探偵事務所で働いています。

本人は探偵の仕事を「小説を書くための取材」と言い続けていますが、実際には小説を書けていません。仕事で得た情報を利用して小遣いを稼ぐこともあり、ギャンブルにも手を出しています。離婚した元妻・響子(真木よう子)には未練を残し、息子・真悟(吉澤太陽)の養育費も十分に払えていません。

ここで大事なのは、良多が単純な「ダメ男」として描かれているわけではないことです。

良多には、かつて一度だけ成功した経験があります。

文学賞を取ったという過去があるからこそ、「自分は本当ならもっとやれる」という気持ちを捨てきれません。何も実績がない人なら、諦めるという選択もできます。しかし良多には、一度だけ「自分は作家として認められた」という記憶があります。

その成功が、逆に現在の良多を縛っています。

小説を書けない現実を認める代わりに、彼は「いつかまた書く」と言い続けます。探偵の仕事も、本気で新しい人生を選んだ結果ではありません。昔の自分に戻るまでの仮住まいのようなものです。

同じことが、響子との関係にも表れています。

良多は離婚した後も、響子の行動を気にしています。彼女に新しい恋人がいると知れば落ち込み、何とか復縁できないかと考える。しかし響子は、すでに良多との結婚生活を終え、次の人生を考えています。

良多だけが時間を止めているのです。

一方、母親の淑子(樹木希林)は、そんな息子に対して意外なほど冷静です。

良多が金に困っていることも、作家としてうまくいっていないことも、母親には分かっています。それでも淑子は、息子を完全に見放すわけではありません。

ただし、何でも肯定するわけでもありません。

この距離感が、良多という人物をかなり正確に表しています。

良多は「母親なら自分を助けてくれる」とどこかで期待しています。しかし淑子は、息子の人生を代わりに生きることはできません。

良多は大人なのに、人生の責任だけはまだ自分一人で引き受けられない。その姿が、作家としての挫折や離婚問題だけでなく、母親との関係からも浮かび上がります。

そして、良多の問題は「夢を追い続けていること」そのものではありません。

問題なのは、夢を追っていると言いながら、現在の生活に責任を持つことから逃げているところです。

響子との離婚は「愛がなくなった」からではない――良多と元妻の決定的な違い

響子は、良多を完全に嫌っているわけではありません。

息子の父親である以上、良多との関係は離婚後も続きます。真悟を通して会うこともありますし、良多が父親として息子を大切に思っていることも響子は知っています。

それでも、もう一度夫婦になるつもりはありません。

ここを「響子は良多に冷たい」と見ると、この映画の関係性を見誤ります。

良多は、響子と復縁することで自分の人生まで元に戻そうとしています。妻が戻れば家庭が戻る。家庭が戻れば、父親としても作家としても、昔の自分を取り戻せるような気がしている。

しかし響子は、そんな簡単な話ではないことを知っています。

良多には才能があるかもしれない。息子を愛しているのも分かる。それでも、生活費や養育費をきちんと負担すること、仕事を続けること、家庭を維持することは別問題です。

良多は「気持ち」を語ります。

響子は「生活」を見ています。

この違いが、二人を分けています。

だから、響子が新しい恋人の存在を良多に隠す必要もありません。良多がその事実に傷つくことは響子にも分かっているでしょう。それでも、響子自身の人生まで良多の未練に合わせる理由はないのです。

一方、真悟との関係には、良多の別の顔が出ます。

良多は父親としては不器用ですが、真悟と過ごす時間を大切にしています。野球を見に行ったり、買い物をしたり、息子に何かをしてやろうとしたりする。

しかし、そこにも良多らしい矛盾があります。

経済的に余裕がないのに、息子には良いものを買ってやりたい。自分自身の生活は崩れているのに、真悟には夢を持っていてほしい。

良多は、自分が失敗した人生を息子に渡したくないのです。

だからこそ、真悟から「父さんはなりたいものになれた?」と問われる場面が重く響きます。

良多自身が、まだその答えを持っていないからです。

ここで映画は、「夢を諦めるな」という単純なメッセージにはしません。

夢を持ち続けることが正しいとも、諦めることが間違いとも描かない。

良多の場合、夢を捨てられないことと、現実から逃げることが混ざってしまっています。

そこに、この人物の情けなさと同時に、妙な人間らしさがあります。

台風の夜に「元家族」が戻る――それでも昔には戻れない理由

物語が大きく動くのは、台風が近づく夜です。

良多、響子、真悟が母・淑子の住む団地に集まり、台風のために帰れなくなります。離婚した夫婦とその息子が、久しぶりに同じ家で夜を過ごすことになります。

この設定は、かなり巧妙です。

台風が来なければ、響子と真悟は帰っていたはずです。

つまり、良多が望んでも作れない「家族の時間」を、台風が偶然作ってしまう。

しかも、その時間には期限があります。

台風が過ぎれば朝が来る。

朝が来れば、響子と真悟は帰っていく。

この一晩だけは、良多が失った家族をもう一度手に入れたように感じられます。しかし、それが永遠には続かないことも、良多自身が分かっています。

だからこそ、台風の夜の場面には幸福と寂しさが同時にあります。

良多は響子と真悟と一緒に過ごし、昔の家族に近い時間を味わいます。

けれど、その時間は「復縁の始まり」ではありません。

ここが、この映画の厳しいところです。

普通の家族ドラマなら、この夜をきっかけに夫婦がやり直す展開も考えられます。良多が自分の過ちを認め、響子がそれを受け入れ、翌朝には新しい人生が始まる。

しかし、映画はそうしません。

なぜなら、良多と響子の問題は一晩で解決できるものではないからです。

良多が響子を愛していることと、夫として信頼できることは別です。

響子が良多との時間を懐かしく思うことと、再び結婚することも別です。

この二つを分けて描いたからこそ、台風の夜が単なる「復縁イベント」になっていません。

むしろこの一夜によって、良多は自分が欲しがっていたものの正体を少しだけ知ることになります。

彼が本当に欲しかったのは、妻を取り戻すことだけではありません。

かつて自分が持っていた「家族」という場所を取り戻したかったのです。

しかし、その場所はもう同じ形では存在しません。

ラストの意味――良多は何も変わっていないようで、少しだけ現実を見る

台風の夜が終わっても、良多の人生は劇的には変わりません。

小説家として大成功するわけでもありません。

響子と復縁するわけでもありません。

大金を手に入れて生活が安定するわけでもありません。

だから、このラストを「良多は成長した」と簡単にまとめるのは違います。

実際、良多は最後まで良多のままです。

それでも、台風の夜を過ごす前と後では、わずかな違いがあります。

良多は、自分が昔の家族をそのまま取り戻せないことを目の前で確認しました。

響子は自分の人生を進めている。

真悟も成長していく。

母親の淑子にも、良多とは別の生活がある。

そして、自分自身も「昔の自分」に戻ることはできない。

それを完全に受け入れたわけではありません。

ただ、「戻れない」という現実から目をそらし続けることは、少しだけできなくなった。

その程度の変化です。

しかし、この映画では、その程度で十分なのだと思います。

是枝裕和監督は、映画の着想について、台風が過ぎた翌朝の団地の芝生の記憶から作品を考えていたと語っています。何かが解決したわけではなくても、台風の翌朝の芝生がきれいだった。その感覚を映画の最後に置きたかったと説明しています。

これは、ラストを理解するうえで非常に大きな手がかりです。

台風は、良多の問題を解決してくれません。

家族を元に戻してもくれません。

それでも、台風が去った後には朝が来ます。

そして、昨日までと同じ場所でも、少し違って見える。

良多にとっても同じです。

人生そのものは何も片付いていません。

それでも、台風の一夜を経験したことで、今までとは少し違う目で自分の人生を見ることができる。

この「何も解決していないのに、完全な絶望でもない」という感覚が、この映画のラストです。

主題歌の「深呼吸」も、その余白を残しています。作詞を担当したハナレグミは、映画が描かなかった良多の過去や未来まで観客が感じ取れるよう、曲にも余白を残したと語っています。

だから最後に「良多はこう生き直します」という答えはありません。

その後、小説を書くのか。

響子との関係がどうなるのか。

真悟との関係がどう変わっていくのか。

映画はそこまで説明しません。

その続きを観客に残して終わります。

よくある疑問を整理――「海よりもまだ深く」というタイトルは何を意味するのか

なぜ良多と響子は復縁しなかったのか?

映画の中で、二人が「絶対に復縁しない」と明言されるわけではありません。

ただ、台風の一夜を過ごした後も、二人が夫婦に戻る描写はありません。

ここは「愛がなくなったから」と考えるより、「一緒に生きていくための信頼が失われた」と考えたほうが分かりやすいです。

良多は響子を好きです。

真悟も大切にしています。

しかし、好きだからといって、夫としての問題が消えるわけではありません。

響子はそこを見ています。

だから、台風の夜に二人の間に穏やかな時間が戻っても、それを結婚生活の再開にはつなげません。

むしろ、あの一夜は「まだ情が残っていること」と「もう一度夫婦になれること」が別だと確認する時間だったと考えられます。

良多は最後に小説を書き始めるのか?

映画では、良多がその後作家として成功したことは描かれていません。

また、「これから本気で小説を書く」とはっきり決意する場面もありません。

したがって、ラストを「良多が作家として再出発した」と断定するのは避けたほうがいいでしょう。

ただし、真悟との会話を含め、良多が自分の人生について考えさせられる場面はあります。

映画が描いているのは、再出発そのものではなく、再出発できるかもしれない地点に良多が立ったところまでです。

これは、良多という人物には合っています。

一晩で人間が別人になることはありません。

なぜ台風が物語の重要な舞台になっているのか?

台風には二つの役割があります。

一つは、離れて暮らす元家族を同じ場所に閉じ込めること。

もう一つは、日常を一時的に止めることです。

普段なら、響子は帰り、真悟も自分の生活へ戻り、良多は一人になります。

しかし台風が来たことで、その日常が止まります。

だからこそ、良多は「もう存在しない家族」と一晩だけ過ごせます。

ただし、台風は必ず過ぎます。

この仕組みそのものが、過去には戻れても、過去に住み続けることはできないという物語と重なっています。

淑子は良多をどう思っているのか?

淑子は良多を心配しています。

しかし、息子の人生を何とかしてあげようとはしません。

むしろ、良多がいつまでも昔の成功や家族にしがみついていることを、ある程度分かったうえで見ています。

淑子自身も、夫を亡くし、老後を一人で暮らしています。

彼女は「思っていた人生」とは違う場所にいます。

それでも、食事をし、誰かと話し、団地で暮らしている。

この姿があるから、良多の人生だけが特別に失敗しているわけではないことが分かります。

「海よりもまだ深く」というタイトルにはどんな意味がある?

タイトルは、劇中で使われるテレサ・テンの楽曲「別れの予感」の歌詞から取られています。是枝監督自身も、映画のタイトルが同曲に由来することを説明しています。

ただし、タイトルを単純に「深い愛情」の意味だけで読むと、この映画の面白さを取りこぼします。

良多が響子に残している感情も、母親への甘えも、息子への愛情も、単純な一言では片付けられません。

好きだから一緒にいられるわけではない。

大切だから元に戻れるわけでもない。

別れた後も消えない感情があり、それでも人は別々の人生を進んでいきます。

「海よりもまだ深く」という言葉は、良多が抱えている感情の深さを示す一方で、その深さだけでは人生を元通りにはできないという皮肉も含んでいます。

この映画は結局、何を描いているのか?

「家族の大切さ」という言葉だけでは、この映画を説明しきれません。

良多は家族を大切に思っています。

それでも家族を失いました。

響子も真悟を大切にしています。

それでも、良多と別れることを選びました。

淑子も息子を気にかけています。

それでも、良多の人生を代わりに生きることはしません。

つまり、この映画で描かれているのは、「大切に思えば、すべてが元に戻る」という話ではありません。

むしろ、人は大切なものを持っていても、それを失うことがある。そして、失ったものを完全には取り戻せなくても、その後の人生を続けていかなければならない、という現実です。

良多がなりたかった大人になれなかったことも、響子と復縁できないことも、真悟が成長して父親の手を離れていくことも、すべて避けられません。

それでも朝は来ます。

台風の翌朝に芝生がきれいだったように、人生の問題が片付いていなくても、その日の景色まで悪いとは限りません。

『海よりもまだ深く』が最後に見せるのは、人生をやり直す奇跡ではありません。

やり直せないものを抱えたまま、それでも今日を生きていくための、小さな視線の変化です。

良多は最後まで立派な男にはなりません。

響子も戻ってきません。

家族も元の形には戻りません。

だからこそ、ラストの静けさが残ります。

「こんなはずじゃなかった」と思いながら生きているのは、良多だけではありません。

その事実に気づいたとき、この映画で描かれていた団地の風景も、台風の夜も、母親の何気ない言葉も、少し違って見えてきます。

人生は、望んだ場所にたどり着いた人だけのものではない。

むしろ、思っていた場所とは違うところに来てしまった人が、そこからどう生きるか。

『海よりもまだ深く』は、その答えをきれいに用意するのではなく、台風が過ぎた後の景色だけを残して終わります。

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