映画『ある男』の正体は誰だったのか?「名前」を失った男と城戸が最後に名乗ろうとしたもの

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タイトル

映画『ある男』の正体は誰だったのか?「名前」を失った男と城戸が最後に名乗ろうとしたもの

映画名:ある男
劇場公開年:2022年
上映時間:121分
監督:石川慶
脚本:向井康介
原作:平野啓一郎
主な出演者:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝、清野菜名、柄本明
ジャンル:ドラマ、ミステリー

※以下は映画の結末まで詳しく扱うネタバレ記事です。未鑑賞の方はご注意ください。

「大祐ではない」という一言で、幸せだった時間の意味が変わる

映画『ある男』で最初に突きつけられる謎は、とても単純です。

里枝が再婚した夫・大祐は、本当に谷口大祐なのか。

しかし、この問いは単なる身元確認では終わりません。大祐の死後にその正体が別人だったと分かったことで、里枝が過ごしてきた時間そのものが揺らぎ始めるからです。

里枝は離婚を経験し、息子の悠人を連れて故郷へ戻っています。そこで出会った大祐は、口数が多いタイプではありませんが、里枝や悠人と静かな家庭を築いていきます。

ところが、大祐は林業の仕事中に事故で亡くなります。

その後の法要で、本物の谷口大祐の兄・恭一が遺影を見て、「弟ではない」と気づきます。

ここで面白いのは、映画が「大祐は悪人だった」という方向には進まないことです。

むしろ、それまで描かれていた大祐の姿は、家族に対して穏やかで、悠人にも父親として接していた人物でした。だからこそ、「別人だった」という事実が、単純な詐欺の話として片づきません。

里枝が知りたいのは、戸籍上の名前だけではありません。

自分が一緒に暮らしていた男は誰だったのか。

そして、あの時間は偽物だったのか。

この二つは似ていますが、意味が違います。

名前が違っていたことは事実です。しかし、悠人と過ごした時間や、里枝と家庭を築いた時間まで消えてしまうわけではありません。

このズレが、映画全体を貫いています。

城戸が調査を始めるのも、単に「偽名を使った男の正体を暴く」ためではありません。大祐として暮らしていた男が、なぜそこまでして別人にならなければならなかったのかを知る必要が出てくるのです。

最初は一つの名前を調べていただけだった城戸が、次第に「名前を変えること」そのものを考えるようになる。この変化が、この映画の本当の入り口です。

大祐の正体は「原誠」だった――なぜ彼は自分の人生を捨てたのか

調査を進めると、里枝の夫として生きていた男は、本物の谷口大祐ではないことが確定します。

さらに城戸は、戸籍交換を仲介していた小見浦憲男にたどり着きます。

小見浦から示された名前が「曽根崎義彦」です。

ここで一度、城戸も観客も「大祐の正体は曽根崎なのか」と考えます。

ところが、話はさらにひっくり返ります。

現在、曽根崎義彦として生きているのは、本物の谷口大祐だったのです。

つまり、谷口大祐の名前を使っていた男と、本物の谷口大祐の人生が入れ替わっている。

そして、最終的に城戸がたどり着くのが「原誠」という人物です。

原誠は、死刑囚・小林謙吉の息子でした。

この事実が明らかになる場面で、それまでの大祐の行動が別の角度から見えてきます。

大祐として生きていた男は、単に他人の人生を奪ったわけではありません。

自分の父親が殺人を犯したことで、「殺人犯の息子」という過去を背負わされていました。

父親本人が犯した罪と、息子である誠の人格は本来別のものです。

しかし、現実にはそう簡単に切り離せない。

どこへ行っても過去を知られ、父親の犯罪と自分自身が結びつけられる。母方の姓を名乗っても、それだけで過去から自由になれるわけではありません。

映画で描かれる誠の苦しさは、父親の犯罪そのものよりも、「父親の犯罪によって自分が何者として扱われるのか」という問題にあります。

誠がボクシングに打ち込む姿も、この文脈で見ると意味が変わります。

最初は、何かに夢中になって自分の居場所を見つけようとしている青年にも見えます。

しかし、彼にとって身体は、父親から受け継いだものでもあります。

鏡を見ることさえ苦痛になるほど、自分の顔が父親を思い出させる。

自分自身から逃げたいのに、自分の身体だけは捨てられない。

だからこそ、戸籍を変えるという選択は、単なる名前の変更ではありませんでした。

「自分は別の人間になれるのか」という、極端な方法による人生のやり直しです。

誠は一度、曽根崎義彦として生き、その後、本物の谷口大祐の戸籍を得ます。

そこでようやく里枝と出会います。

ここで重要なのは、誠が谷口大祐になった後の人生が、それまでの人生と明らかに違っていることです。

里枝と出会い、悠人と暮らし、新しい家族ができる。

そこには、父親の犯罪も、過去の偏見もありません。

「大祐」という名前は、誠にとって単なる偽名ではなく、初めて普通の生活を送るための入り口になっていたのです。

だから彼の死は、単純な身元詐称の結末にはなりません。

ようやく手に入れた人生が、本人の意思とは関係なく終わってしまった。

その事実を知った里枝が、「それまでの時間まで偽物だった」と考えなくてはならない理由はありません。

むしろ映画は、名前を偽っていたことと、そこで生きた時間が本物だったことを同時に成立させています。

本物の谷口大祐も「別の人生」を選んでいた――この映画が単純な善悪にできない理由

原誠の正体が分かっても、映画はそこで終わりません。

城戸は本物の谷口大祐にもたどり着きます。

ここで物語の見え方がもう一度変わります。

最初は、「原誠が谷口大祐の名前を奪った」という構図に見えます。

ところが、本物の谷口大祐もまた、自分の元の人生を捨てていたのです。

つまり、名前を奪った側と、名前を手放した側の両方に、それぞれの事情がある。

これはかなり重要な構造です。

もし本物の谷口大祐が幸福な人生を送っていて、それを原誠が一方的に奪ったのであれば、物語は分かりやすい被害者と加害者の話になります。

しかし実際にはそうではありません。

谷口大祐自身も、家や家族との関係から離れ、別人として生きることを選んでいます。

だから「本当の自分に戻ればすべて解決する」という話にはならない。

本物の名前を持っていることが、必ずしも本人にとって幸福とは限らないからです。

この点で、映画のタイトルである『ある男』も効いてきます。

「谷口大祐」と呼ばれていた男は誰なのか。

調べれば「原誠」という名前が出てきます。

しかし、原誠という名前に戻せば、その男の人生が説明できるわけでもありません。

さらに、その名前を名乗ること自体が本人にとって苦痛だった。

では、人間を決めるものは名前なのか。

戸籍なのか。

家族との関係なのか。

それとも、自分がどのように生きたかという時間なのか。

映画は、この問いに一つの答えを出しません。

むしろ、本物の谷口大祐まで別の名前を選んでいたことで、「本名こそ本当の自分」という考えを崩しています。

この構造があるから、里枝にとっての「大祐」も簡単には否定できません。

戸籍上は別人でも、里枝にとっては夫でした。

悠人にとっては父親でした。

その関係まで偽物だったわけではありません。

一方で、戸籍を交換している以上、原誠が他人の名前を使ったことには当然問題があります。

映画はそこを美談にしていません。

ただ、「犯罪的な行為をした人間だから、その人生もすべて偽物だった」とは描かない。

この割り切れなさが、この作品の強いところです。

なぜ城戸は「ある男」に惹かれたのか――自分自身の問題が重なっていく

この物語で本当に大きく変化する人物は、原誠だけではありません。

弁護士の城戸章良です。

城戸は在日コリアン3世という出自を持ち、日本国籍を取得して生活しています。

普段はそれを大きな問題として扱わず、弁護士として仕事をしています。

しかし、妻の家族との関係や、日常の中で向けられる何気ない言葉によって、城戸自身も「自分は何者なのか」という問題を抱えています。

最初の城戸は、あくまで調査する側です。

依頼人は里枝。

調べる対象は亡くなった大祐。

城戸自身は事件の外側にいます。

ところが、小見浦との面会によって、その立場が崩れ始めます。

小見浦は城戸の出自を見抜き、弁護士としての肩書など関係ないかのように、城戸自身が隠している部分に踏み込んできます。

ここで城戸は、「他人の過去」を調べているつもりだったのに、自分の過去まで意識させられる。

だから城戸は、この調査から簡単に離れられなくなります。

原誠がなぜ名前を変えたのかを知りたい。

それと同時に、なぜ人は自分の出自から逃げたくなるのかを、自分自身の問題として考え始めてしまうのです。

さらに終盤、城戸は妻の裏切りにも気づきます。

ここが映画としてかなり重要です。

城戸が追っていた原誠は、自分の過去を捨てることで新しい人生を得ようとしました。

本物の谷口大祐も、元の名前を捨てています。

そして城戸も、自分の出自や家庭に対して満たされないものを抱えている。

三人はまったく同じ人間ではありません。

それでも、「今の自分ではない人生を生きたい」という方向に、それぞれの気持ちが動いています。

だから、城戸が原誠に共感していくのは不自然ではありません。

ただし、ここには映画の弱さもあります。

城戸がどの時点で、どれほど強く「自分も別人になりたい」と考えるようになったのかは、もう少し丁寧に描いてもよかったと思います。

妻との関係や差別に関する描写はありますが、原誠の人生に対する城戸の感情の変化が、やや早く見える部分があります。

特に原作を知らない観客には、城戸が調査対象にそこまで感情移入する理由が十分に伝わらない可能性があります。

その一方で、映画が説明を抑えたことには意味もあります。

城戸の気持ちを台詞で説明しすぎず、表情や沈黙で見せることで、「城戸自身がまだ自分の気持ちを整理できていない」状態を保っているからです。

よくある疑問とラストの意味――城戸は最後に誰の名前を名乗ったのか

物語の最後、城戸はバーで見知らぬ男と話しています。

そこで城戸は、自分自身の話ではなく、谷口大祐として生きた男の人生を語ります。

名前を変えた男。

家族を持った男。

そして、すでに死んでしまった男。

まるで自分の身の上話をするように、他人の人生を語っています。

やがて相手から名前を聞かれ、城戸が名乗ろうとしたところで映画は終わります。

ここで、「城戸は谷口大祐を名乗ったのか」という疑問が生まれます。

映画は、そこを明確には示していません。

したがって、「城戸は確実に谷口大祐と名乗った」と断定するのは適切ではありません。

ただ、映画の流れから考えると、その可能性を強く意識させる場面であることは間違いありません。

城戸は調査を通じて、原誠が名前を変えて生きた人生を知りました。

その後、自分の家庭にも問題があることが分かります。

そんな状態で、城戸は他人の人生を自分のことのように語っている。

これは単なる余談ではありません。

それまで城戸は「ある男」を調べていました。

しかし最後には、城戸自身が「ある男」の人生を借りて語っている。

調査する側と、調査される側の境界がなくなっています。

ここがラストの一番怖いところです。

城戸が実際に戸籍を交換したのかは、映画からは分かりません。

その必要もありません。

重要なのは、城戸の中に「別人として生きてみたい」という感情が芽生えていることです。

そして、最後の「名前」を言う瞬間だけを残して画面を切ることで、映画はその先を観客に渡しています。

もし城戸が「谷口」と名乗ったなら、彼は他人の人生を借りたことになります。

もし本名を名乗ったのなら、他人の人生を語りながらも、自分自身に戻ったことになります。

どちらとも取れるからこそ、この終わり方には意味があります。

ただし、私は「城戸が完全に別人になった」と解釈するより、「別人になりたいという誘惑を、自分自身の中に発見してしまった」と読むほうが自然だと思います。

原誠は、過去を捨てるために名前を変えました。

しかし、その結果として手に入れた人生も、事故によって突然終わりました。

本物の谷口大祐も、名前を捨てたからといって、過去そのものが消えたわけではありません。

城戸も同じです。

名前を変えれば、過去との関係がなくなるわけではない。

だからこそ、ラストで城戸が何という名前を名乗ったのかを見せないことには意味があります。

観客が考えるべきなのは「城戸は何と名乗ったのか」だけではなく、「自分が城戸だったら、何と名乗るのか」というところまで含まれているからです。

「ある男」というタイトルは何を指しているのか

タイトルの「ある男」は、まず里枝の夫として生きた原誠を指します。

しかし、最後まで見終えると、それだけではないことに気づきます。

本物の谷口大祐もまた、元の名前を捨てた「ある男」です。

そして城戸も、ラストでは「ある男」の人生を語っています。

つまり、「ある男」は一人の人物を指す固有名詞ではなくなっていきます。

人は名前によって分類されます。

戸籍によって家族が決まり、過去によって評価され、出自によって見られ方が変わる。

しかし、その名前を変えてしまったとき、以前の人生まで消えるわけではありません。

原誠は父親の罪を背負わされましたが、父親と同じ人間ではありませんでした。

谷口大祐は自分の家から逃げましたが、名前を捨てたことで別人になったわけでもありません。

城戸も、自分の名前を捨てれば苦しみから完全に自由になれるわけではない。

この三人を重ねていくことで、「人間を名前だけで判断できるのか」という問いが浮かび上がります。

絵や「顔」が繰り返し登場する意味

映画の中では、原誠が描いた絵や、死刑囚・小林謙吉が描いた絵が重要な手掛かりになります。

ここで面白いのは、名前より先に「顔」がつながっていくことです。

戸籍上は別人でも、顔や絵の特徴が手掛かりになって正体が明らかになる。

つまり映画は、「名前は変えられても身体まで完全には交換できない」ということを映像で示しています。

一方で、城戸自身も鏡やガラスに映った自分の顔を見つめる場面があります。

自分の顔を見ているのに、その顔が何者なのかを考えさせられる。

名前と顔。

戸籍と身体。

過去と現在。

映画は、この二つを何度も重ねています。

そのため、絵は単なる謎解きの手掛かりではありません。

原誠が「自分の顔」から逃げようとしていたことを、物語の後半になって観客に理解させる装置にもなっています。

『ある男』の結末をどう解釈するか――名前を変えても、人生は消えない

『ある男』は、途中まで見ると「亡くなった男の正体を探すミステリー」に見えます。

実際、誰が誰の名前を使っているのかを追う部分には、かなり強い謎解きがあります。

「谷口大祐ではない」

「では誰なのか」

「曽根崎義彦なのか」

「さらにその前は誰なのか」

「なぜそこまで名前を変えたのか」

この順番で情報が出てくるため、観客は城戸と一緒に正体を追うことになります。

しかし、原誠の正体が分かったところで、謎が完全に解決したわけではありません。

むしろ、そこから映画の本題が始まります。

原誠がなぜ別人になったのか。

その理由を知ると、単純に「名前を偽った悪い男」とは言えなくなる。

一方で、原誠が別人として生きたことで、本物の谷口大祐の人生も変わってしまった。

さらに、里枝や悠人にとっては、名前が違っていても一緒に暮らした男は確かに家族でした。

だから、この映画には「本当の名前を取り戻せばすべて元通りになる」という結末がありません。

取り戻せないからです。

失われた時間は戻らない。

原誠の人生も戻らない。

里枝が大祐と過ごした時間も消えない。

そして城戸自身も、調査を始める前の自分には戻れません。

ここに、この映画の一番大きな苦さがあります。

人は過去から逃げることができます。

名前を変えることもできます。

住む場所を変えることもできます。

しかし、過去が存在しなかったことにはできません。

だからといって、過去だけでその人を決めつけることもできません。

原誠は「殺人犯の息子」ではありますが、「殺人犯」ではありません。

谷口大祐は「谷口家の次男」でしたが、その人生を捨てることを選びました。

城戸もまた、自分の出自や家庭の問題から逃げたくなる瞬間を迎えます。

この三人を見ていると、人間の人生は一つの名前だけでは説明できないことが分かります。

それでも社会は、人を名前や戸籍や家族関係によって分類します。

その仕組みから完全に逃れることは難しい。

だからこそ、原誠が里枝と過ごした時間には、戸籍上の名前とは別の重みがあります。

「谷口大祐」という名前は偽物だった。

しかし、彼が里枝を愛し、悠人と暮らした時間まで偽物だったわけではない。

この二つを同時に認めることが、『ある男』の結末を理解するうえで重要です。

そして最後に残るのが、城戸です。

彼は他人の人生を調べ、その人生に入り込み、最後にはその男の人生を自分のもののように語っています。

名前を名乗る直前で映画が終わるのは、事件の謎を残すためではありません。

城戸自身が、これからどの名前で生きるのか。

あるいは、自分の名前を持ったまま生きることができるのか。

その答えを映画は出さずに終わります。

だから『ある男』の最後は、「結局、城戸は何と名乗ったのか」という謎だけを追うと少し物足りなく感じるかもしれません。

本当に残る問いは、その先にあります。

自分が生まれた家。

自分につけられた名前。

自分では選べなかった過去。

それらを抱えたまま生きることと、全部捨てて別の人間になること。

原誠は後者を選びました。

谷口大祐も、自分の名前を手放しました。

そして城戸は、その二人の人生を知ったうえで、自分自身がどう生きるのかを問われることになります。

『ある男』は、誰かの正体を暴いて終わる映画ではありません。

むしろ正体が分かった後に、「では、その人が生きてきた時間まで偽物になるのか」と問い返してくる映画です。

最後まで名前を明かさない城戸の姿は、その問いを観客の側に残します。

「私は誰なのか」という問いは、戸籍に書かれた名前だけでは答えられない。

だからこそ、この映画で最後まで残る「ある男」は、原誠だけではありません。

自分の過去から逃げたいと思ったことのある人。

別の人生を想像したことのある人。

今の自分とは違う誰かになれたら、と考えたことのある人。

そうした人間そのものが、最後には「ある男」という言葉の中に重なって見えてきます。

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