映画『万引き家族』のラストを考察|祥太とゆりが残した「家族」の意味とは

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映画名:万引き家族
劇場公開年:2018年
上映時間:120分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
原作:なし
主な出演者:リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、城桧吏、佐々木みゆ
ジャンル:ヒューマンドラマ

※以下は映画の結末まで詳しく扱うネタバレ記事です。未鑑賞の方はご注意ください。

「家族」に見えていた6人が、最初から少しずつ嘘をついている

映画の冒頭で描かれるのは、治と祥太がスーパーで万引きをする場面です。2人は言葉を交わさなくても動きが分かっているように、手際よく商品を盗みます。

普通なら緊張するはずの犯罪行為なのに、2人の間には親子の日常のような空気があります。治は祥太に万引きの方法を教え、祥太もそれを「仕事」のようにこなしている。ここだけを見ると、少し変わった家族の日常に見えます。

しかし、この冒頭には後から見ると大きな仕掛けがあります。

祥太は治の実の息子ではありません。さらに治自身も、初枝の実の息子ではありません。信代と治にも血縁はなく、亜紀も初枝の実の孫ではない。そして、後から加わるりんも、もちろん血のつながった家族ではありません。

つまり、この家にいる人たちは、最初から「家族だった人たち」ではありません。

それなのに、映画の前半では彼らを家族に見せる演出が徹底されています。

一緒に食卓を囲み、風呂に入り、海へ行き、花火の音を聞き、くだらないことで笑う。生活の細部だけを見れば、むしろ一般的な家族より親密に見える瞬間さえあります。

ここで重要なのは、映画が彼らの関係を最初から説明しないことです。

観客は治を「父親」、信代を「母親」、祥太を「息子」、初枝を「祖母」と自然に受け入れてしまいます。ところが物語が進むにつれて、その認識が一つずつ崩されていきます。

最初にその構造を揺るがすのが、治が連れてきた少女です。

治は、団地の廊下で寒さに震えている幼い女の子を見つけます。少女は「ゆり」と名乗りますが、腕や体には傷ややけどの跡があります。

治と信代は一度、少女を家に戻そうとします。しかし、両親の激しい言い争いを聞き、少女を置いて帰ることができなくなります。

この場面だけを見ると、治たちは少女を「救った」ように見えます。

しかし、亜紀が「誘拐ではないか」と指摘することで、別の見方も提示されます。

ここから映画は、「誰がこの子の親なのか」という問題を簡単には答えません。

少女を産んだのは実の両親です。しかし、その両親は少女を家から締め出し、傷つけています。一方、治たちは血縁こそありませんが、食事を与え、傷を手当てし、一緒に眠る場所を与えます。

「親」という言葉を血縁だけで決めるなら答えは簡単です。

しかし、子どもを実際に守っているのは誰なのかという視点に変えると、話が変わります。

映画はこの矛盾を、すぐに結論へ持っていきません。

むしろ、治たち自身もまた社会的には「正しい家族」とは言えない存在であることを描き続けます。

りんが「ゆり」から「りん」になることで、家族の形が変わっていく

少女の本名は、やがて「じゅり」だと分かります。

一家は彼女を「りん」と呼ぶようになります。髪を切り、以前の生活から切り離すことで、りんは少しずつこの家の子どもになっていきます。

ここで見逃せないのが、りん自身がこの生活を受け入れていくことです。

最初から信代たちが一方的に「家族にした」わけではありません。

りんは、実の家に戻ることよりも、ここで暮らすことを選びます。

もちろん、これは子どもが自由な環境で十分に判断した結果とは言えません。虐待されていた子どもにとって、安心できる場所が目の前にあれば、そこを選ぶのは当然とも考えられます。

だから、この関係を単純に「血のつながりより愛情が大切」とまとめると、映画の複雑さを失ってしまいます。

信代たちはりんを守りますが、同時にりんを学校にも通わせず、万引きにも参加させます。

守っているだけではありません。

自分たちの生活の仕組みの中に、りんを組み込んでいるのです。

ここが『万引き家族』の怖いところです。

治たちは確かにりんに優しい。しかし、その優しさがそのまま正しい行動につながっているわけではありません。

りんにとっては、虐待される実家より柴田家のほうが安心できる。それでも柴田家そのものが、犯罪によって成り立っている。

この矛盾は、後半になるほど大きくなっていきます。

特に祥太の変化が重要です。

それまで祥太は治と一緒に万引きをしていました。しかし、りんが加わることで、祥太の中に少しずつ疑問が生まれます。

自分が教えられたことを、今度は自分より小さい子どもがやろうとしている。

そこで祥太は、治から受け継いだ「家族の仕事」を初めて外側から見ることになります。

自分がやっているときには遊びの延長だった万引きが、りんに教える立場になると違って見える。

この変化が、物語を終盤へ動かします。

初枝の死が明らかにする「この家族は何でつながっていたのか」

夏の海水浴は、この映画の中でも特に重要な場面です。

一家は海で遊び、りんも祥太も楽しそうに過ごします。

しかし、その直後に初枝が亡くなります。

ここから映画の雰囲気は大きく変わります。

治と信代は初枝の死を届け出ず、遺体を家の敷地に埋めます。初枝が受け取っていた年金を、そのまま生活費として使い続けるためです。

この選択によって、柴田家の「家族らしさ」は決定的に揺らぎます。

初枝を大切にしていたことと、初枝の死を利用したことが同時に存在するからです。

初枝自身も、決して善人としてだけ描かれてはいません。

彼女は年金を一家の生活費として提供しながら、パチンコ店で他人の玉を持ち去ることもあります。亜紀に対しても、純粋な祖母のように接している一方で、亜紀の両親から金を受け取っています。

そして後半、亜紀はその事実を知ることになります。

亜紀と初枝の関係も、血縁による単純な祖母と孫ではありません。初枝は前夫との関係が壊れた後、その夫の再婚相手側につながる亜紀を引き取るような形で一緒に暮らしています。

さらに、初枝が亜紀の両親から受け取っていた金については、映画の中でも細部まで説明されません。

初枝自身は、自分が受けた仕打ちへの「慰謝料」のように考えていたことがうかがえます。一方、亜紀から見れば、自分を預かっていることを利用して親から金を取っていたようにも見えます。

ここでも、ひとつの行動に複数の意味があります。

初枝は亜紀を利用していたのか。

それとも、亜紀を自分のもとに置いておくために必要な金だったのか。

映画は答えを出しません。

だからこそ、初枝が亡くなった後、亜紀が家に戻ってくる場面が重く響きます。

彼女が失ったのは、単なる住む場所ではありません。

自分を必要としてくれていたと思っていた初枝との関係そのものが、本当に自分のためだったのか分からなくなってしまうからです。

祥太はなぜ万引きでわざと捕まったのか?家族が崩壊する決定的な瞬間

祥太がりんと一緒に万引きをする場面で、物語は大きく動きます。

りんが店の商品を盗もうとしたとき、祥太はそれを止めようとします。

しかし、止めるだけでは終わりません。

祥太は自分が店員に見つかるように行動し、りんを逃がそうとします。そして逃げる途中で高い場所から飛び降り、足を負傷します。

この事件によって、警察が一家に近づきます。

祥太が後に治へ話すように、あのとき祥太は「わざと捕まった」のでした。

ここは映画の中でも特に重要な場面です。

祥太は治を裏切ったわけではありません。

むしろ逆です。

治から教えられた万引きを、自分が最後に使って、りんを守ろうとした。

これまで「父親の言うことを聞く子ども」だった祥太が、自分で判断して行動するようになった瞬間です。

同時に、祥太は治を「父親」として見続けることにも限界を感じ始めています。

警察の介入によって、一家の嘘が次々と明らかになります。

治と信代には血縁がなく、祥太も実の子ではない。

りんは誘拐された少女だった。

初枝はすでに亡くなっている。

さらに、治と信代には過去の事件もあります。

信代の前夫をめぐる事件で、治は信代とともに遺体を埋めています。映画では治が一方的な殺人者として描かれるのではなく、信代を守る過程で起きた事件として説明されます。

しかし、それでも二人が遺体を隠した事実は消えません。

ここで、それまで「少し変わった家族」に見えていた一家が、社会の法律から見れば複数の犯罪を抱えた集団だったことが明らかになります。

この構成が巧いのは、観客自身の見方まで変えてしまうことです。

前半では、治がりんを連れ帰ったことを「優しさ」として受け止めていた。

しかし後半になると、それは「誘拐」と呼ばれる。

祥太との関係も、父子ではなく「大人と、保護されるべき子ども」として見直されます。

つまり映画は、途中で新しい事実を追加しているだけではありません。

同じ場面の意味そのものを変えています。

ラストの意味――祥太が「おとうちゃん」と呼んだ理由と、りんが外を見る理由

警察に捕まった後、家族は完全に離ればなれになります。

信代は罪を引き受けて服役し、祥太は施設で暮らすことになります。治は一人で暮らすようになり、りんは実の両親のもとへ戻されます。

ここで興味深いのが、映画が「本当の家族に戻ってよかった」という結末にしないことです。

りんは実の母親のもとに戻ります。

しかし、その後のりんは、かつて治に見つけられたときと同じように、家の外に出されてしまいます。

最後にりんがベランダから外を見つめる場面は、その意味で冒頭とつながっています。

最初のりんは、団地の廊下で一人でいました。

最後のりんも、家にいながら孤独です。

「実の親のもとに戻ったから問題は解決した」という話ではありません。

一方、祥太には別の結末が用意されています。

治と再会した祥太は、治が自分を置いて逃げようとしたことを確認します。

治はそれを認めます。

そして、もう自分は「父ちゃん」ではなく「おじさんに戻る」と伝えます。

この言葉は、治が祥太を手放す決断でもあります。

これまで治は、祥太から「父ちゃん」と呼ばれることを強く望んでいました。

しかし最後には、自分からその立場を降ります。

ところが、祥太は別れ際に、自分がわざと捕まったことを治に明かします。

つまり祥太もまた、治を完全に否定しているわけではありません。

バスに乗った祥太を、治が必死に追いかけます。

そして祥太は、その姿を見ながら「おとうちゃん」と呼びます。

治は法的にも血縁上も父親ではありません。

それでも祥太にとって、治と過ごした時間が偽物だったわけではなかった。

ここで映画は、「血のつながりがなくても家族になれる」と単純に肯定するのではありません。

血のつながりがなくても親子のような関係は生まれる。

しかし、その関係が社会的に認められるとは限らない。

そして、関係が本物だったからといって、そのために行った犯罪まで正当化されるわけでもない。

この二つを同時に成立させたところに、この映画の結末があります。

りんは最後に何を見ていたのか?

ラストのりんについて、「飛び降りようとしていたのではないか」と考える人もいます。

ただし、映画本編だけから自殺を示していると断定することはできません。

むしろ重要なのは、りんが外を見ているという構図です。

彼女は物語の冒頭でも、家の外に置かれていました。

そして柴田家で過ごしている間だけは、誰かと一緒に食事をし、笑い、海にも行きました。

最後にはその生活が失われています。

だからあの視線は、単純な「希望」でも「絶望」でもありません。

かつて自分を拾ってくれた人たちがいなくなった場所から、もう一度外の世界を見ている。

その表情を説明しすぎずに映画を終えることで、観客に判断を委ねています。ラストの意図については、是枝監督自身も、冒頭と最後ではりんが見ている景色の広がりが違うことに触れています。

「万引き家族」というタイトルは何を意味するのか?

タイトルだけを見ると、この映画は「万引きをする家族」の話です。

しかし、最後まで見ると「万引き」が単なる犯罪の説明ではないことが分かります。

彼らは店の商品を盗みます。

それだけではありません。

治は祥太を連れてきています。

信代はりんを引き取ります。

初枝は亜紀を家に置きます。

それぞれが、どこかで社会からこぼれ落ちた人を拾い上げるようにして、一緒に暮らしています。

もちろん、子どもを「拾う」という表現には危うさがあります。

実際、りんについては誘拐と判断されても仕方がない行為です。

だから、この家族が行っていることを「人を救っている」とだけ評価することはできません。

それでも、彼らが一緒にいる時間には、本物の感情があります。

そこがタイトルの皮肉です。

彼らは物を盗み、生活を成り立たせています。

同時に、社会の制度がうまく拾い上げられなかった人たちが、互いを拾い合っている。

しかし、その関係も永遠には続きません。

祥太を守るための万引きが、祥太自身によって終わりを迎える。

初枝の死を隠したことで、一家の生活が決定的に崩れる。

りんを守ったことが、最後には「誘拐」として裁かれる。

つまり、彼らをつないでいたものと、彼らを壊したものは、同じ生活の中から生まれています。

『万引き家族』は家族の美しさだけを描いた映画ではない

『万引き家族』を「血のつながりより心のつながりが大切だ」とまとめると、確かに分かりやすいです。

しかし、それだけではこの映画の後味を説明できません。

治たちは、りんを守りました。

祥太も、りんを守るために自分が捕まる道を選びました。

信代も、祥太やりんを自分の子どものように扱いました。

その一方で、子どもを学校に通わせず、万引きを教え、死者の年金を受け取り、りんを実の家族から引き離しています。

優しさと身勝手さが、同じ行動の中に存在しています。

だからこそ、警察が彼らを引き離したことを単純に「悪い社会」とは言えません。

社会には、子どもを保護するための制度があります。誘拐や死体遺棄を許さない法律もあります。

ただ、その制度が「正しい家族」に戻すことが、必ずしも子どもにとって幸せな結果になるとは限らない。

映画の最後でりんが再び一人になることは、その矛盾を突きつけています。

そして祥太については、治と離れることが必ずしも不幸とも描かれません。

施設で学校に通い、自分の生活を始める祥太は、以前よりも社会に近い場所へ戻っていきます。

それでも、治との時間が消えるわけではありません。

この二人の結末を並べることで、映画は「血縁か、疑似家族か」という二択から逃げています。

血縁がある家族でも子どもを傷つけることはある。

血縁のない家族でも子どもを大切にすることはある。

しかし、血縁のない関係なら何をしても許されるわけではない。

『万引き家族』が最後まで描いているのは、この簡単には整理できない現実です。

映画を見終わった後に残るのは、「家族とは何か」という大きな問いだけではありません。

誰かを家族として迎えるとは、その人の人生に責任を持つことでもあります。

治は祥太を「父ちゃん」と呼ばせたかった。

信代はりんの母親になりたかった。

しかし最後には、2人とも子どもを自分のもとに置き続けることより、手放すことを選びます。

そこまで見届けると、この映画で描かれていた「家族」は、最初に見えていたものとは違って見えてきます。

彼らが一緒に暮らしていた時間は偽物ではありません。

でも、その関係だけで子どもの人生を決めていいわけでもありません。

『万引き家族』が強く残るのは、家族を美しく描いたからではなく、家族になろうとした人たちの中にある優しさと身勝手さを、どちらか一方に決めずに最後まで見せたからです。

そして最後に残るりんと祥太の姿は、「家族だった時間が終わった後、人は何を抱えて生きていくのか」という問いを静かに残します。

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